2008年 08月 17日
フダラクの火 |
前にも書いたけど自分のブランドを作ろうとした時にブランド名の候補にメメント・モリ
(死を想え)というのがあったけど辞めた。
まぁ自分でそのつもりはなくても一般的に死というのはネガティブな意味に捉えられるから
なんか雰囲気暗そうに思われるのは心外だったのでボツになったのである。
昔からたくさん動物を飼っていて、よく生き物の死も目にしてきたので昔から死について
考えることが多かった。
小さい時は死ぬほど泣いてたりしていたけれども高校生ぐらいからちょっと変わった。
何がきっかけかは分からないが悲しむというのは違うと思い始めた。
そんな事言っても悲しいと感じることもあるが、ただそれだけというのは違うだろう
と考えはじめたのである。
受験生時代に自分が幼稚園の時から飼っていた犬が死んだ時まったく悲しくなかったので
しらない間に自分の感覚が変わっていたのに気づいた。
死というものは別にネガティブなものじゃない。
そのころから今に至るまで自分ではそう考えている。
だいたいが日本の葬式は暗い。
昔から自分が死んだらこんな葬式で見送られるのは御免だなと思っている。
悪友がバカな思い出話でもしながら遺影の前で悪態ついているぐらいが理想だ。
ちょっと違うかもしれないがティム・バートンの「ビッグフィッシュ」みたいのもいい。
「死」というのが暗いイメージでしか語られないのは嫌だ。
とにかく昔からそう思っていた。
今回、和歌山に旅行に行って補陀落(フダラク)送りの花火というのを勝浦で見た。
フダラクというのは海のかなたに浄土があって海からそこに至ることが出来るという土俗的
な観音信仰の一種であり、フダラク送りとは死者の魂を海からそこに返す儀式である。
昔、諸星大二郎の漫画かなんかで見た覚えがあるが、大して印象にも残っておらず
「なんだそれ?」というぐらいの感覚しかはじめは持っていなかった。
勝浦の花火大会は非常に花火としてはこじんまりしていて、沖合い100メートルほど
の船からそれが打ち上げられる。
人手もそう多くないから俺は浜辺の人がいないところで寝っころがって観ていたら
まるで自分のためだけにあがっている様だった。
最初の方は普通の花火大会と同じで、地元の企業からの協賛の花火が打ちあがる。
そして、その後に始まるのがフダラク送りの花火であった。
一家族が亡くなった個人に向けてメッセージを添え、魂を海に送るための花火を
うちあげるという本当にプライベートな花火である。
はじめはなんとなく観ていたのだけれども、気づけば何かが心に触れて涙が出ていた。
はかないが美しく、潔い。そこに暗さも湿った感情も何もなく、破裂音とともに色とりどりの
火花が散り散りになっていく。
今まで考えた事もなかったが、無数に飛び散って分かれていくあの火花自体が死者の魂
なんだと思った。
その魂を海に還す。
こういう事なんだ。
自分が思っていたものはこういう事なんだと思った。
死ぬ瞬間に破裂して、後に美しく飛び散る魂の火が絵を書いて消える。
ちょっと前に父親がなくなった友達が言っていたのだが、葬儀屋のコピーに
「人が死ぬのは死なないとあげられないプレゼントを遺族に贈るためなのです。」
と書いてあったそうだ。
それを聞いたときは感心したが、本当にそういうものであると俺は思っている。
生きている間に天に向かって昇りつめ、死ぬ瞬間に破裂して花を残し、消えていく。
死は花を残すために死ぬのである。
個人的にはそう考えていたい。
花火を観ている時、一緒に花火を観ていた大学の合気道部の同期が
「ウチらの代の誰かが死んだらここからみんなで花火で見送ろうね。」
と言っていて、一瞬縁起でも無いと思ったが、すぐに思い直して
それも悪くないと思った。
それはそれで粋な決め事で、なかなかいい繋がりじゃないかと思ったのである。
by CoCoschKa
| 2008-08-17 00:54
| ココシュカのふうらい