2008年 02月 17日
猫の妙術の話 |

武道の本懐を述べた話に「猫の妙術」という話がある。
昔、とあるところにネズミがたくさん出る家があった。
そこのネズミときたら大きく猫よりもずっと強いときていた。
困った住民は付近から名だたる「ネズミ捕りの名人」と名高い猫を
たくさん借りては闘わせるも、そのネズミたちを退治することが出来ず
に終わっていた。
そんなある日、隣町にネズミ退治でこの猫にかなう猫はいないという
猫がいる噂をききつける。
さっそく住民はその猫を借りるために出かけることとなった。
住民はその噂の猫をどんなたくましい猫なのだろうと想像してそこに向かった
のだが、実際のその猫を見て愕然とする。
その猫は年老いてヨボヨボの猫でネズミ捕りどころか動くのも億劫そうで寝てばかりいる。
「こんな猫が役に立つはずがない。」と思いながらも住民は文字通り猫の手も借りたい。
噂を信じ切れぬままその猫を借りて来ると、その猫は同じように寝てばかりいて
何をするでもない。
ただ不思議な事に、あれだけいたネズミたちがいつの間にか家から姿を消していた。
一見、なにが言いたいのか分からないようなこの話は禅的な悟りの話をしている。
武に達するとは最終的に戦いという次元や、些末な相手に勝つための数々の技
の次元から抜けることであるという事をこの話は示唆している。
合気道なんかではこの話の本質の部分を陽明学の言葉をひっぱり出して
「神武不殺(しんぶふさつ)」という言葉で表現している。
大学に入ったばかりの武道を始めたての頃この話の指す美しい逆説(俺はそう思った)
に深く感銘をうけて、それ以来ことあるたびに頭によぎる。
*
話は変わって、俺が物心ついた時から始めて今でもほぼ毎日続けていることに
マッサージがある。
それだけ長く続けただけあり、マッサージを通して知ったことは自分のパーソナリティ
に深く関わっている。
このマッサージという言葉が指す意味は俺が使うのと、一般的な認識にすごく差が
あるような気がするけれども他に言葉が思いつかないのでこのまま使う。
長い間、やり続けただけあり自分のマッサージ師としての腕前にも少々の覚えがある。
この間、今やっている仕事のお客さんが
「五十肩で半年前から腕が上がらない、どこにいっても治らない。」
と言っていたので二十分ほど時間を頂いて、不自由なく腕があがる程度にはなんとかした。
その時、そのお客さんに「どうしてマッサージを職業にしないのか?」を真剣に訊かれた。
実を言うと自分でもこれにたいする明確な回答はそこまではっきり持っていない。
安易に将来、自分が付きたい仕事などを考えてみても「服飾系」とかは思いつくけど
「マッサージ師として・・・・」なんて大して思ってない。
いままでの自分を振り返れば今まで、人が三食たべるように当たり前にマッサージを
続けてきて、たぶんこれからもそうなんだろうなぐらいに思っているのでなりたい自分の将来像
でもない。
動物を種類分けするように自分を種類分けすれば多分、俺は「マッサージ師」という
種類の生き物なのだと思う。
それは職業の問題ではない。
長くなるからここでは書かないが、無意識的に求めている本質がマッサージ的な事
にかかわりが有ってそれを求めることをず~っと続けている。
ず~っとやり続けてきて思い続けてきた事。
猫の妙術の話ではないけれども、マッサージ師という生き物である自分は
技の次元ではない自分の生き方を探している。
だからその道一本の専門職には就かなかった。
自分がいる空間や場に対していかにマッサージ師としての本懐を発揮するか、
年老いた猫のように何かを直接的にしているように見えなくても「働き」と一体に
なっている。
そういう道を歩みたい。
by CoCoschKa
| 2008-02-17 10:39
| ココシュカとぶどう