2005年 12月 30日
知る |
ときに本気で自分が大真面目に考えていることを文章であらわしてみる。
先日、野口体操創始者、野口三千三(みちぞう)さんの本を読んで大変にショックを
うけた。
下の記事にも書いているけど、俺は最近自分のマッサージに疑問を持っていた。
というのは技術的な話ではない。
小手先のテクニックの話ならば別にそんなに考えないし、すでにある程度の自信
はある。
俺が模索していたのはそういうことではないのだ。
いつも一口にマッサージという言葉で表現するのやけど、これが言葉の不便さと
いうやつで、俺が言うマッサージと一般で言うマッサージでは相当に中身の隔たり
がある。
今は違うが、自分にとってマッサージとは「相手の身体との対話」だと思っていた。
普段は本人もことさら意識することのない生命体としての相手の身体と対話すること
が俺にとってのマッサージだと思っていたのだ。
実際、「触れる」ことで相手の事が、会話するよりも分かる。
これも分かるというと語弊があるが、普段、会話するときには顕れないその人
自信の「味」のようなものが感じ取れるのである。
そうしていままでやってきて最近になって2.3回、自分が現段階で本当に満足
のいくマッサージができた事がある。
なにが自分でも満足いくのかしらないが、何かが違うのである。
それをしていた時の自分はほとんど体の感覚が消えてしまって、ただ手
(正確には身体との接触点)にのみ意識があり、そこに「居る」という感覚が
強くするのである。
もっと言うと相手の身体も消え去ってその接触点のみになる(感じがする。)
だからその接触面にしか自分は居ないのだけれども、相手もそこにしかいない
自分でも相手でもないいわば「自分と相手との関係」のみがそこに出てきたような
感じがして、自分ではそうとう驚きまた嬉しかった。
効果のほどは相手に聞いてみないとわからないが、普段俺がするときとではやはり
終わったあとの表情がまた全然違う。
俺はいつもこの表情の変化で相手に自分がしたことの意味をしるのである。
こんなことが数回あってからというもの俺は人にマッサージをするたびにその状態
になることを目指してきた。
でもそれを求めても思うようにはならない。
そこで色々考え始め途中で出た答えは発動のスイッチに書いたようなことである。
自分にとって厳しい条件をつけることで普段、無意識に温存してる部分をたたき起こす
火事場のくそ力的手法。
そこまでは分かってきたのだが、それでもやはり何かが足りない。
そんな小手先なことではなく、俺はもっと本質的な事に問題がある気がしたのだ。
そこでかれこれ四年ほど続けてきた「身体との対話」というスタンスに疑問を持ち始め
これからを模索し始めたのである。
そんなこんなをうすらぼんやり考えていたのやが、ある日古本屋で以前
から読みたかった野口三千三の本を発見して迷わず購入し、読み進めた。
正直、身体的観点からみた文字の成り立ちと言霊的観念を扱った内容
なんかは現時点の俺には高度すぎて理解が及ばない部分が多数あったのやが、
読み進めていくうちに俺にとってとても衝撃的な一節があった。
それは以下のようなものである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「からだとの対話」というあり方で二十数年の間、体操という営みを続けてきた私
は、甲骨文字の世界に入ってみて重大な誤りに気がついた。
「からだとの対話」というあり方は、自然の神と人間の意識が対等であるかの
ような、意識人間の傲慢さから来る発想であることに気がついたのだ。
まさに愕然とし、あわてふためいて、神を仰いだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
なんという事だと思った。
まさしく「からだとの対話」という言葉を使って俺自身の誤りを指摘されたのだ。
そしてそれは自分の中ですんなりと受け入れられた。
この一節は俺にとって大きなショックだった。
そして本の存在を二、三年前から知りつつも今、このタイミングで手にとって
本当に良かったと思った。
おそらく一年前の俺ならここまでの衝撃はなかったものと思われる。
そして、そsれに続く一節にさらに衝撃をうける。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
それから数年たった今は「自分とは問いかけをするだけの存在」で、あとは
「自然の神にお任せする」」、問いかけだけが自分にできることのすべてだから、
この「問いかけの命をかける。」、あとは自然の神が問題をといてくれ、答えを
教えてくれる。
「体操とは占である」「体操とはからだに貞くことである。」となる。
「信じて、任せて、待つ」ということの本当の意味がわかり始めたのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この文章で、最近感じていた疑問は見事に瓦解した。
野口三千三がこれを記したのが63歳の頃、これに書いてあるような内容
に気づいたのが数年前とのことなので、俺は四十年も早くその片鱗に触れ
ることが出来たことになる。
先人には感謝せずにいられない。
上に書いてある野口三千三の文章の内容を俺は「祈り」だと解釈した。
考えればマッサージに限らず自分が行っているすべての事は「祈り」なのだ。
稽古も何かを作ることも時に旅にでることも・・・・・・
時間を「祈り」に使うことで、現時点の自分にはない何か自分に訪れるのを
待っている。
自分と相手との間に素晴らしいであろう何かが訪れるのを待っている。
そこに始めから設定された到達地点はないし、勝ちも負けもない。
自分が祈ることに上手いも下手もプロもアマチュアもなく、そう思うことがある
としたらそれは大きな誤解である。
ただ終りのない問いかけとしての「祈り」があるのみなのである
今年ももうすぐ終りという段階になってとても重要なことに気づくことが出来た。
来年はこんなことをしてやろう・・・・・・・
なんて言う決め事はしない。
そんなことはなんら重要ではないから。
それではみなさん良いお年を
今年も一年ありがとう御座いました☆
先日、野口体操創始者、野口三千三(みちぞう)さんの本を読んで大変にショックを
うけた。
下の記事にも書いているけど、俺は最近自分のマッサージに疑問を持っていた。
というのは技術的な話ではない。
小手先のテクニックの話ならば別にそんなに考えないし、すでにある程度の自信
はある。
俺が模索していたのはそういうことではないのだ。
いつも一口にマッサージという言葉で表現するのやけど、これが言葉の不便さと
いうやつで、俺が言うマッサージと一般で言うマッサージでは相当に中身の隔たり
がある。
今は違うが、自分にとってマッサージとは「相手の身体との対話」だと思っていた。
普段は本人もことさら意識することのない生命体としての相手の身体と対話すること
が俺にとってのマッサージだと思っていたのだ。
実際、「触れる」ことで相手の事が、会話するよりも分かる。
これも分かるというと語弊があるが、普段、会話するときには顕れないその人
自信の「味」のようなものが感じ取れるのである。
そうしていままでやってきて最近になって2.3回、自分が現段階で本当に満足
のいくマッサージができた事がある。
なにが自分でも満足いくのかしらないが、何かが違うのである。
それをしていた時の自分はほとんど体の感覚が消えてしまって、ただ手
(正確には身体との接触点)にのみ意識があり、そこに「居る」という感覚が
強くするのである。
もっと言うと相手の身体も消え去ってその接触点のみになる(感じがする。)
だからその接触面にしか自分は居ないのだけれども、相手もそこにしかいない
自分でも相手でもないいわば「自分と相手との関係」のみがそこに出てきたような
感じがして、自分ではそうとう驚きまた嬉しかった。
効果のほどは相手に聞いてみないとわからないが、普段俺がするときとではやはり
終わったあとの表情がまた全然違う。
俺はいつもこの表情の変化で相手に自分がしたことの意味をしるのである。
こんなことが数回あってからというもの俺は人にマッサージをするたびにその状態
になることを目指してきた。
でもそれを求めても思うようにはならない。
そこで色々考え始め途中で出た答えは発動のスイッチに書いたようなことである。
自分にとって厳しい条件をつけることで普段、無意識に温存してる部分をたたき起こす
火事場のくそ力的手法。
そこまでは分かってきたのだが、それでもやはり何かが足りない。
そんな小手先なことではなく、俺はもっと本質的な事に問題がある気がしたのだ。
そこでかれこれ四年ほど続けてきた「身体との対話」というスタンスに疑問を持ち始め
これからを模索し始めたのである。
そんなこんなをうすらぼんやり考えていたのやが、ある日古本屋で以前
から読みたかった野口三千三の本を発見して迷わず購入し、読み進めた。
正直、身体的観点からみた文字の成り立ちと言霊的観念を扱った内容
なんかは現時点の俺には高度すぎて理解が及ばない部分が多数あったのやが、
読み進めていくうちに俺にとってとても衝撃的な一節があった。
それは以下のようなものである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「からだとの対話」というあり方で二十数年の間、体操という営みを続けてきた私
は、甲骨文字の世界に入ってみて重大な誤りに気がついた。
「からだとの対話」というあり方は、自然の神と人間の意識が対等であるかの
ような、意識人間の傲慢さから来る発想であることに気がついたのだ。
まさに愕然とし、あわてふためいて、神を仰いだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
なんという事だと思った。
まさしく「からだとの対話」という言葉を使って俺自身の誤りを指摘されたのだ。
そしてそれは自分の中ですんなりと受け入れられた。
この一節は俺にとって大きなショックだった。
そして本の存在を二、三年前から知りつつも今、このタイミングで手にとって
本当に良かったと思った。
おそらく一年前の俺ならここまでの衝撃はなかったものと思われる。
そして、そsれに続く一節にさらに衝撃をうける。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
それから数年たった今は「自分とは問いかけをするだけの存在」で、あとは
「自然の神にお任せする」」、問いかけだけが自分にできることのすべてだから、
この「問いかけの命をかける。」、あとは自然の神が問題をといてくれ、答えを
教えてくれる。
「体操とは占である」「体操とはからだに貞くことである。」となる。
「信じて、任せて、待つ」ということの本当の意味がわかり始めたのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この文章で、最近感じていた疑問は見事に瓦解した。
野口三千三がこれを記したのが63歳の頃、これに書いてあるような内容
に気づいたのが数年前とのことなので、俺は四十年も早くその片鱗に触れ
ることが出来たことになる。
先人には感謝せずにいられない。
上に書いてある野口三千三の文章の内容を俺は「祈り」だと解釈した。
考えればマッサージに限らず自分が行っているすべての事は「祈り」なのだ。
稽古も何かを作ることも時に旅にでることも・・・・・・
時間を「祈り」に使うことで、現時点の自分にはない何か自分に訪れるのを
待っている。
自分と相手との間に素晴らしいであろう何かが訪れるのを待っている。
そこに始めから設定された到達地点はないし、勝ちも負けもない。
自分が祈ることに上手いも下手もプロもアマチュアもなく、そう思うことがある
としたらそれは大きな誤解である。
ただ終りのない問いかけとしての「祈り」があるのみなのである
今年ももうすぐ終りという段階になってとても重要なことに気づくことが出来た。
来年はこんなことをしてやろう・・・・・・・
なんて言う決め事はしない。
そんなことはなんら重要ではないから。
それではみなさん良いお年を
今年も一年ありがとう御座いました☆
by CoCoschKa
| 2005-12-30 01:36
| ココシュカのつぶやき