2005年 11月 22日
発動のスイッチ |
屋久島にてイノチガヨブに書いた大きな杉と出会った後、俺はとんでもない
目にあうはめになった。
あまりに自然を体感しながらゆっくりと歩きすぎた俺は、その日予定の小屋にたどり
つく前に最悪の日没を迎えてしまったのだ。
もとより廃道になった林道ゆえ、道なき道。
それに加え、昼間やっとのことで道を確認する目印にしていた五メートル間隔
に木に目印として結びつけてあるリボンも降りてくる闇とともに姿を隠す。
まだ周辺が完全に闇に染まるまでは大きな屋久杉がいちいちグロテスクな
化け物に見え、何か目に見えない神秘的なものに恐怖を感じたが、完全
な闇に周囲を包まれ、空も生い茂る草木のため星が見えない。
見えるのはヘッドライトに照らし出される正面だけ、それもすぐ手前の草木
にさえぎられ二メートル先も見えない。
初めて知ったのだが、人間はこうなると「空間」を認識できないのだ。
縦と横と高さの感覚があいまいになり、なにか狭い箱に入れられた様な
気になり、呼吸も苦しくなってくる。
降雨量の多い土地柄のため谷にさしかかるたび沼地に足をとられ思う
ように進めない。
どこへ向かえばよいのかわからない、何もみえない、思うように動けない。
屋久島では毎年、このようなパターンから獣道にはいり、崖からおちて死人
が出ることがとても多い。
そんなこともあり、俺の頭にうかぶのは「遭難」の二文字だった。
これは多分間違ってない。
遭難なのかそうでないかは、俺が自分の状況をどう認識するかだけにかかって
いたのだと思う。
その時である。
頭の中で何かのスイッチが入った。
突然、今までの不安感が消えて感覚が冴え渡る。
死ぬほど痛かった足の豆の痛みが消える。
背負っている20キロの荷物の重さが不思議となくなる。
そして、何よりリボンも見えないにもかかわらず、不思議と進む
べき道が明確にわかりだしてきた。
俺はその状態になってから、真っ暗な山道を小走りでかけて行きながら
いくつも山と谷を越えて目的の小屋に夜の九時半にたどりついた。
人間がいつも持っている力の何パーセントかしか使っていないというのは
よくいわれることやが、それを実感した体験だった。
これを通してわかったことがある。
人間があいまいなものから想像力を働かせてまで恐怖を感じたりするのは
命を守りたいというの防衛本能のなせるワザだ。
もともと野生動物のはしくれである人間は、目下のところ警戒するものが
見当たらなくても常にどこかで警戒の糸を張り巡らすように出来ていて
何かに対して警戒する習性がある。
その防衛本能と想像力の融合が頭の中に「化け物」を作り出す。
だからこの化け物は状況が切羽詰まってくると頭の中から消えうせる。
存在させる必要がなくなるから。
痛みや重みを感じるのも体が無理をしないよう、体が防衛本能を働かせて
自分の状態を逐一報告してくれているのだ。
これは結局、自分の内部に興味を引くことでもあるので外部状況的にはまだまだ
余裕があるということだ。
そして、いよいよと言うときになった時スイッチが入って痛くも重くもなくなったというのは
今まで内部に向けていた感覚を外部に切り替えたと言うことなのやろう。
その結果、普段は出すことの出来ない力が発揮できたというのでおそらく間違い
ない。
この操作は無意識下の働きなので訓練しだいではわからないが、まぁ自分で
コントロールすることは不可能やと思う。
でも最近なんとなく操作はできなくても、そんな力がだせる状況に出来るやり方
がわかって来た。
それは絶対に他人のせいに出来ない状況にすること。
自分が今、こうあるのは自分が自主的に選んだ状況で、自分が選択した
結果こうあるというのを強く認識する。
泣いても笑っても自分のしたこと、自分がやらなきゃ誰も助けてくれや
しない。
そう言う状況に自分をもっていって問題と向き合うで初めて普段使えない力を「呼び起こす」
ことができるのだなとようやく最近になってはっきりわかった。
それに気づいたことで、俺がいままで少し悩んでいたことが解決した。
俺はさるマッサージ店でバイトしてるが、常日頃、自分がプライベートで人をマッサージ
するのと店でするときと明らかに自分の出せる実力が変わるので不安になっていたのだ。
普段、店舗で働いているときは、俺がプライベートでするときのよくて20%ぐらい
しか調子が出せないのだ。
もちろんテクニック的なものは変わらないが、ほかの要素で圧倒的に何かが欠如する。
お客さんがどんなに褒めてくれても俺はそれを自分で知っているため、微妙な心境
だったりした。
ちょっと前まで明確な原因がわからなくて困っていたのだが、上で書いたようなこと
がわかってようやく自分の中で解決した。
結局、この普段の力の20%しか出せないというのも、それは俺が店舗の従業員
として客に接しているからで、俺個人対相手個人という関係ではないからだ。
そこでは「俺が相手に」や、「相手が俺に」という明確な関係はなくなり、
責任の所在も自主性もあいまいになる。
そんなことは意識していなくても絶対にそうなってしまう。
それがわかってからは、このことは悩み事ではなくなり、また店舗で働くこと
への興味も失せた。
自分が自分の能力を100%出し切るには完全に「自主的」に物事に「直面」
することが必要不可欠なのだ。
目にあうはめになった。
あまりに自然を体感しながらゆっくりと歩きすぎた俺は、その日予定の小屋にたどり
つく前に最悪の日没を迎えてしまったのだ。
もとより廃道になった林道ゆえ、道なき道。
それに加え、昼間やっとのことで道を確認する目印にしていた五メートル間隔
に木に目印として結びつけてあるリボンも降りてくる闇とともに姿を隠す。
まだ周辺が完全に闇に染まるまでは大きな屋久杉がいちいちグロテスクな
化け物に見え、何か目に見えない神秘的なものに恐怖を感じたが、完全
な闇に周囲を包まれ、空も生い茂る草木のため星が見えない。
見えるのはヘッドライトに照らし出される正面だけ、それもすぐ手前の草木
にさえぎられ二メートル先も見えない。
初めて知ったのだが、人間はこうなると「空間」を認識できないのだ。
縦と横と高さの感覚があいまいになり、なにか狭い箱に入れられた様な
気になり、呼吸も苦しくなってくる。
降雨量の多い土地柄のため谷にさしかかるたび沼地に足をとられ思う
ように進めない。
どこへ向かえばよいのかわからない、何もみえない、思うように動けない。
屋久島では毎年、このようなパターンから獣道にはいり、崖からおちて死人
が出ることがとても多い。
そんなこともあり、俺の頭にうかぶのは「遭難」の二文字だった。
これは多分間違ってない。
遭難なのかそうでないかは、俺が自分の状況をどう認識するかだけにかかって
いたのだと思う。
その時である。
頭の中で何かのスイッチが入った。
突然、今までの不安感が消えて感覚が冴え渡る。
死ぬほど痛かった足の豆の痛みが消える。
背負っている20キロの荷物の重さが不思議となくなる。
そして、何よりリボンも見えないにもかかわらず、不思議と進む
べき道が明確にわかりだしてきた。
俺はその状態になってから、真っ暗な山道を小走りでかけて行きながら
いくつも山と谷を越えて目的の小屋に夜の九時半にたどりついた。
人間がいつも持っている力の何パーセントかしか使っていないというのは
よくいわれることやが、それを実感した体験だった。
これを通してわかったことがある。
人間があいまいなものから想像力を働かせてまで恐怖を感じたりするのは
命を守りたいというの防衛本能のなせるワザだ。
もともと野生動物のはしくれである人間は、目下のところ警戒するものが
見当たらなくても常にどこかで警戒の糸を張り巡らすように出来ていて
何かに対して警戒する習性がある。
その防衛本能と想像力の融合が頭の中に「化け物」を作り出す。
だからこの化け物は状況が切羽詰まってくると頭の中から消えうせる。
存在させる必要がなくなるから。
痛みや重みを感じるのも体が無理をしないよう、体が防衛本能を働かせて
自分の状態を逐一報告してくれているのだ。
これは結局、自分の内部に興味を引くことでもあるので外部状況的にはまだまだ
余裕があるということだ。
そして、いよいよと言うときになった時スイッチが入って痛くも重くもなくなったというのは
今まで内部に向けていた感覚を外部に切り替えたと言うことなのやろう。
その結果、普段は出すことの出来ない力が発揮できたというのでおそらく間違い
ない。
この操作は無意識下の働きなので訓練しだいではわからないが、まぁ自分で
コントロールすることは不可能やと思う。
でも最近なんとなく操作はできなくても、そんな力がだせる状況に出来るやり方
がわかって来た。
それは絶対に他人のせいに出来ない状況にすること。
自分が今、こうあるのは自分が自主的に選んだ状況で、自分が選択した
結果こうあるというのを強く認識する。
泣いても笑っても自分のしたこと、自分がやらなきゃ誰も助けてくれや
しない。
そう言う状況に自分をもっていって問題と向き合うで初めて普段使えない力を「呼び起こす」
ことができるのだなとようやく最近になってはっきりわかった。
それに気づいたことで、俺がいままで少し悩んでいたことが解決した。
俺はさるマッサージ店でバイトしてるが、常日頃、自分がプライベートで人をマッサージ
するのと店でするときと明らかに自分の出せる実力が変わるので不安になっていたのだ。
普段、店舗で働いているときは、俺がプライベートでするときのよくて20%ぐらい
しか調子が出せないのだ。
もちろんテクニック的なものは変わらないが、ほかの要素で圧倒的に何かが欠如する。
お客さんがどんなに褒めてくれても俺はそれを自分で知っているため、微妙な心境
だったりした。
ちょっと前まで明確な原因がわからなくて困っていたのだが、上で書いたようなこと
がわかってようやく自分の中で解決した。
結局、この普段の力の20%しか出せないというのも、それは俺が店舗の従業員
として客に接しているからで、俺個人対相手個人という関係ではないからだ。
そこでは「俺が相手に」や、「相手が俺に」という明確な関係はなくなり、
責任の所在も自主性もあいまいになる。
そんなことは意識していなくても絶対にそうなってしまう。
それがわかってからは、このことは悩み事ではなくなり、また店舗で働くこと
への興味も失せた。
自分が自分の能力を100%出し切るには完全に「自主的」に物事に「直面」
することが必要不可欠なのだ。
by CoCoschKa
| 2005-11-22 03:04
| ココシュカのつぶやき