2004年 05月 09日
思う事の続き |
のジーンズが主体になる。
そういう感覚なので「俺」が作るという感覚ではなくなる。
もちろんそれが無いわけではなく。その両者がバランスよく絡まなければ俺のなかで良い仕事にはしづらい。
だから調子が悪いときはどうしようもないということもちょっと前まであった。
そういうときはもう一度自分がしなければならない所に立ち返る。
俺の目の前に来るジーンズは大概大なり小なりダメージを負っている。
だからまずは見栄えのことよりもそのダメージを回復させて着用に差し支えない
状態にまで持っていくことが重要になる。
その次に見栄えである。表面からみてどんなカンジに見えるのかという部分。
カッコ悪くするわけにはいかへんから、考えられる限りかっこよくする。
そんな感じやけどそれらの前提でさらに考えなければアカンことがある。
それは時間的要素と履いてくれる人である。
ハジメはええカンジやったけどまたダメージが増えるにつれてすぐボロくなった。
もしくはカッコエエ部分が剥げ落ちてみっともなくなってしまった。
そういう履いてくれる人がそれを履いていく過程も、質のいい仕事をする上で考慮
せぇへんとアカン。
そういう訳でコレが履かれ始めて一年後にはこうかな?とかここが破れだしたら
こうで、とか考えた上でつくる。だから始めは見えない部分に別の模様の布をしこんだり、柄をつぶさないように、補強するための細工がしてあったりする。
こういう作業は、昔の和ダンスとかにほどこされてる金具とかとその役割が似てる。
あれは装飾と、そのモノ自体を頑丈にするための補強もかねている。
たとえ地震とかで家の梁がおちてきても中の物は無事なように作られている。
職人の、自分の作ったものに永遠性を持たせたいという願望のあらわれでもあるかもしれへん。
そしてそういう細工は俺の場合、ジーンズに現れてるその人の動きのクセを研究した上で施される。
単純に膝をつく機会の多いひとなら、膝の部分はほかのとこより念入りに仕事をしなければならない。そういう話である。
こんな事を考えていると、ファッションとかファッションと言うものの一ジャンルである
リメイクと言うものと微妙に系統が違うんかも、とか考えるが便宜上しゃあないとも思っている。
(ちなみに写真はNO6、陶器市の売れのこりで今のところの私物)
by CoCoschKa
| 2004-05-09 16:07
| ココシュカのこども(作品)