2004年 09月 25日
シンクロニシティ文化論 |
シンクロニシティと呼ばれる現象がある。
有名なのは鹿児島の喜界島の猿の話で、あるとき島の猿のうちの一匹
が芋を塩水であらって食べるようになった。
そうするとそれをマネして食べる猿が同じ島の中に増えてきた。
そして、その芋を洗って食べるという習慣がその島の中である程度
一般化したとき、連絡を取れるはずのない離れた島に居る猿たちも同様の
行動をとりだすようになった。
この話はかなり有名な話で色んなところで引き合いに出されている。
俺自身知ったのはだいぶ前のことやったのやが、最近になって少し
シンクロニシティに対する認識が変わった。
文化や価値観というものの形成にはある程度このシンクロニシティが関与
しているのではないかと思いだしたのである。
以前から奇怪に感じていたことにゴッホの絵のことがある。
ゴッホはゴッホが生きていた時代にはほとんど誰からも見向きもされないような
絵をかいていたのに、現代にあってはたくさんの人がその良さを感じることが出来る
ところとなっている。
大人ならまだしも幼稚園のこどもが「この絵きれーい。」とか言っていてもそれは
べつに異常でもなんでもなく、日常の風景といえるやろう。
しかしちょっと良く考えてみればこの子供は昔のヨーロッパの人が持ち得なかった
感覚をすでに持っていることになる。
それは英才教育かなんかでこれは偉い画家が描いた絵だからいい絵なんだよ
と教え込まれて得たような感覚ではないやろう。
実際、自分に置き換えて考えても初めてひまわりの絵を見たときになんちゅういい絵
やろうと思った記憶がある。
ここから思うことは、感覚や価値観といったものもある一定数そういう感覚を持っている
人がいると伝播するのかもということである。
ここで少し話しを変えてみる。
もしゴッホや印象派の人間達が存在しなかったらはたして現代の人間はそういった
絵を理解する感覚を持ちえたやろうか?
俺はこれは持ち得なかったのではと思っている。
ゴッホがやった事というのは、当時の一般の人がもっていた美的感覚の世界から
離れたところから「美の真理の種」を持ってきて蒔いたという事ではないかと思う
のである。
その種を持ってきたてのうちは同じような種をどこかから得たもの同士で
それを育てあう、そしてそれが育つにつれ少しづつその感覚を所有するもの
が増える。
そしてある一定ラインを超えたときそれは世のスタンダードな感覚とになる。
いわゆる常識的感覚というやつである。
この常識的感覚が時代の流れをつくり風潮をつくっていく。
たとえそれがプラスなものでもマイナスなものでもそれに違いはない。
だから情報を発信する人間には責任があるのや。
世界はその人を映していく。
だから発信される情報はポジティブでなくてはいけない、美しくなくてはいけない。
たまたまゴッホを引き合いにだしたが、優れた未発見の感覚、あまり広まって
ない優れた価値観を発見するのは実は誰でもよいのである。
重要なのはそれを広めることである。
各方面で「優れた感覚の種」を捜し求めて高い山を登っていく人がいる。
誰が一番にそれを手にしたかは、おそらくこれからの世の中では重要な事ではない。
手にした種は植えて実らせ、増やして森にする。
その方法を考えていこうと思う。
有名なのは鹿児島の喜界島の猿の話で、あるとき島の猿のうちの一匹
が芋を塩水であらって食べるようになった。
そうするとそれをマネして食べる猿が同じ島の中に増えてきた。
そして、その芋を洗って食べるという習慣がその島の中である程度
一般化したとき、連絡を取れるはずのない離れた島に居る猿たちも同様の
行動をとりだすようになった。
この話はかなり有名な話で色んなところで引き合いに出されている。
俺自身知ったのはだいぶ前のことやったのやが、最近になって少し
シンクロニシティに対する認識が変わった。
文化や価値観というものの形成にはある程度このシンクロニシティが関与
しているのではないかと思いだしたのである。
以前から奇怪に感じていたことにゴッホの絵のことがある。
ゴッホはゴッホが生きていた時代にはほとんど誰からも見向きもされないような
絵をかいていたのに、現代にあってはたくさんの人がその良さを感じることが出来る
ところとなっている。
大人ならまだしも幼稚園のこどもが「この絵きれーい。」とか言っていてもそれは
べつに異常でもなんでもなく、日常の風景といえるやろう。
しかしちょっと良く考えてみればこの子供は昔のヨーロッパの人が持ち得なかった
感覚をすでに持っていることになる。
それは英才教育かなんかでこれは偉い画家が描いた絵だからいい絵なんだよ
と教え込まれて得たような感覚ではないやろう。
実際、自分に置き換えて考えても初めてひまわりの絵を見たときになんちゅういい絵
やろうと思った記憶がある。
ここから思うことは、感覚や価値観といったものもある一定数そういう感覚を持っている
人がいると伝播するのかもということである。
ここで少し話しを変えてみる。
もしゴッホや印象派の人間達が存在しなかったらはたして現代の人間はそういった
絵を理解する感覚を持ちえたやろうか?
俺はこれは持ち得なかったのではと思っている。
ゴッホがやった事というのは、当時の一般の人がもっていた美的感覚の世界から
離れたところから「美の真理の種」を持ってきて蒔いたという事ではないかと思う
のである。
その種を持ってきたてのうちは同じような種をどこかから得たもの同士で
それを育てあう、そしてそれが育つにつれ少しづつその感覚を所有するもの
が増える。
そしてある一定ラインを超えたときそれは世のスタンダードな感覚とになる。
いわゆる常識的感覚というやつである。
この常識的感覚が時代の流れをつくり風潮をつくっていく。
たとえそれがプラスなものでもマイナスなものでもそれに違いはない。
だから情報を発信する人間には責任があるのや。
世界はその人を映していく。
だから発信される情報はポジティブでなくてはいけない、美しくなくてはいけない。
たまたまゴッホを引き合いにだしたが、優れた未発見の感覚、あまり広まって
ない優れた価値観を発見するのは実は誰でもよいのである。
重要なのはそれを広めることである。
各方面で「優れた感覚の種」を捜し求めて高い山を登っていく人がいる。
誰が一番にそれを手にしたかは、おそらくこれからの世の中では重要な事ではない。
手にした種は植えて実らせ、増やして森にする。
その方法を考えていこうと思う。
by CoCoschKa
| 2004-09-25 19:37
| ココシュカのつぶやき