2004年 08月 28日
モノにたいする敬意 |
俺は一応モノをよく扱い、作ったりもしている人間である。
作るとは言っても俺の場合ジーンズならリペアーの延長のリメイク
なので当然ジーンズの寿命が永らえ、かつ持ち主の人により愛されるよう
心がけて作業している。大真面目にそう考えている。
その作業は俺の感覚ではアーティスティックなものではなくモノに対する
奉仕作業のような感覚に近い。
始めたきっかけも元々大してジーンズに興味はなかったものの、
趣味で集めていた古い布がある程度、数がたまり永遠に日の目をみないようになって
しまうのではかわいそうだと思い、一番有意義で服好きな自分の趣味にも合い、なおかつ需要がありそうというきっかけで始めたのである。
だからこんな形式になったのは単なる偶然である。
作り方もちょっとしたハギレでも有効活用できるように工夫を凝らした
全くの我流である。デザインを先行してつくったものではない。
ハジメにモノありきで作業している。
モノに重点をおいてジーンズを見たときモノの向こうに人が見える。
持ち主の行動、体験、嘘が入る余地もなくそこにたしかに持ち主が存在する。
ちょっと脱線してしまったが、そんなわけで普通の人よりはモノ主体で考える
機会が多い。それゆえ逆にモノに対する執着も逆にない。
相当気に入っているものでも人から売ってくれと頼まれて、そいつが俺より
そのモノを大事にしそうであれば迷わず売る。
結果モノが今より幸せになればそれでよい。
色んなものは俺を中継地点に右から左へ流れて手元にはまったく残らない
というのも一つの理想である。
手元には残ってなくてもそれと接したことで、楽しい時間が過ごせたり、感覚
が洗練されたりしたのなら、それは俺には得にしかなってない。
そういう感覚を毎日磨いてるからやろうか、ド○キホーテなどの店が嫌いでしょうがない
あっても無くてもよいものが煩雑に売られている。
俺はモノを見た瞬間にその末路を想像するクセができているのやが、そういうクセ
を持ったままあそこに入るのはキツイ、虚無的な気分になる。
敬意を払われないで無造作に並べられ、値段だけが叩かれて売られている
その光景は俺には奴隷市場のようにも見える。
俺が大阪にいた頃はごちゃごちゃモノを売っている店はあってもあの店のような
雰囲気を出している店はなかったので、結構ショックやった。
ところが最近、地元に帰ってみると大規模なリサイクルショップのような店が出来ていた。
古本、古着、家電品、ゲーム全てを所狭しとド○キホーテのごとく店内に並べて売っている。
ディスプレイする気も感じられない。店内も暗く汚いのやがわけの分からない装飾はされている。絶対今までならなかったタイプの店である。
最近は古本屋は古本屋だけというのも経営がくるしくこういう店が増えているらしい。
しかし俺は今まで入ったどのリサイクルショップでも感じたことのない気分になった。
その気分がなにかはハジメはよく分からなかったが、しばらくして「これは闇だ。」
と思った。単なるリサイクルショップなのやがその経営のやり方にどうもそんなモノを感じた。
空気もおかしい。今、考えれば人もそんな風に扱われてしかるべきという空気を感じたの
かもしれん。それは店内にという事ではなく現代の風潮として・・・・
別にその後誰にもそのことは言わなかったが、ある地元の友達と遊んでいると
その店の話を切り出してきて「俺はあの店のやり方に闇を感じる。」と俺と同じ
表現を使って言っていた。正直びっくりしたが図らずも同じ意見をもったと言うことは
やはりそうなのやろう。
俺は光を生み出す経営方針で負けぬようにせねばと本気で思った。
作るとは言っても俺の場合ジーンズならリペアーの延長のリメイク
なので当然ジーンズの寿命が永らえ、かつ持ち主の人により愛されるよう
心がけて作業している。大真面目にそう考えている。
その作業は俺の感覚ではアーティスティックなものではなくモノに対する
奉仕作業のような感覚に近い。
始めたきっかけも元々大してジーンズに興味はなかったものの、
趣味で集めていた古い布がある程度、数がたまり永遠に日の目をみないようになって
しまうのではかわいそうだと思い、一番有意義で服好きな自分の趣味にも合い、なおかつ需要がありそうというきっかけで始めたのである。
だからこんな形式になったのは単なる偶然である。
作り方もちょっとしたハギレでも有効活用できるように工夫を凝らした
全くの我流である。デザインを先行してつくったものではない。
ハジメにモノありきで作業している。
モノに重点をおいてジーンズを見たときモノの向こうに人が見える。
持ち主の行動、体験、嘘が入る余地もなくそこにたしかに持ち主が存在する。
ちょっと脱線してしまったが、そんなわけで普通の人よりはモノ主体で考える
機会が多い。それゆえ逆にモノに対する執着も逆にない。
相当気に入っているものでも人から売ってくれと頼まれて、そいつが俺より
そのモノを大事にしそうであれば迷わず売る。
結果モノが今より幸せになればそれでよい。
色んなものは俺を中継地点に右から左へ流れて手元にはまったく残らない
というのも一つの理想である。
手元には残ってなくてもそれと接したことで、楽しい時間が過ごせたり、感覚
が洗練されたりしたのなら、それは俺には得にしかなってない。
そういう感覚を毎日磨いてるからやろうか、ド○キホーテなどの店が嫌いでしょうがない
あっても無くてもよいものが煩雑に売られている。
俺はモノを見た瞬間にその末路を想像するクセができているのやが、そういうクセ
を持ったままあそこに入るのはキツイ、虚無的な気分になる。
敬意を払われないで無造作に並べられ、値段だけが叩かれて売られている
その光景は俺には奴隷市場のようにも見える。
俺が大阪にいた頃はごちゃごちゃモノを売っている店はあってもあの店のような
雰囲気を出している店はなかったので、結構ショックやった。
ところが最近、地元に帰ってみると大規模なリサイクルショップのような店が出来ていた。
古本、古着、家電品、ゲーム全てを所狭しとド○キホーテのごとく店内に並べて売っている。
ディスプレイする気も感じられない。店内も暗く汚いのやがわけの分からない装飾はされている。絶対今までならなかったタイプの店である。
最近は古本屋は古本屋だけというのも経営がくるしくこういう店が増えているらしい。
しかし俺は今まで入ったどのリサイクルショップでも感じたことのない気分になった。
その気分がなにかはハジメはよく分からなかったが、しばらくして「これは闇だ。」
と思った。単なるリサイクルショップなのやがその経営のやり方にどうもそんなモノを感じた。
空気もおかしい。今、考えれば人もそんな風に扱われてしかるべきという空気を感じたの
かもしれん。それは店内にという事ではなく現代の風潮として・・・・
別にその後誰にもそのことは言わなかったが、ある地元の友達と遊んでいると
その店の話を切り出してきて「俺はあの店のやり方に闇を感じる。」と俺と同じ
表現を使って言っていた。正直びっくりしたが図らずも同じ意見をもったと言うことは
やはりそうなのやろう。
俺は光を生み出す経営方針で負けぬようにせねばと本気で思った。
by CoCoschKa
| 2004-08-28 04:38
| ココシュカのつぶやき