2007年 01月 08日
継承 存続 |
思いついたことをどんどん書いて言葉にしていく。
最近は実家にいた期間をのぞいて一日中、近所のスタバやマクドに
籠もって精神科系やら小児科系の本やらかんやらといった景気のよくない本を読みながら
気になる部分をどんどんメモにとっていく毎日なので頭に副産物がどんどん
溜まる。
性格上ある程度の段階で出さないとそれが引っかかって次には進めない、
ほかに気が払えないので料理も出来ない。
どうしてくれよう。
とりあえずにんじんをバリバリかじりながら書く。
今日はすごく不謹慎なことをかもしれない事を書く。
俺は最近、友達のこともそうだが人が自殺した話を聞くといいたたまれない
気持ちと共になんとも言えない怒りが沸いてくる。
「何の権利があって死ぬんだ!?」
と心の中で思う。
不謹慎なのも、どうしようもない結果としてそうなったのもわかっている
つもりだがそう思うのである。
前の文章を書いていたらよけいにそんな気持ちが強くなった。
何で俺が腹が立つのか?
それは多分、死ぬ人が自分の命は自分の命と思っているところに
腹が立つのである。
当たり前だと言われそうだ。
たしかに当たり前なんだが当たり前ではない。
こういう気持ちはどこから来るのかというのを考えてみたら
思い当たったことがあった、
よく漫画なんかで「俺はいいから先に行け!!」といって死ぬ脇役が
いて、それで主人公は助かる。
それで助かった主人公がなんかの理由で自殺したらそれはお前どういう
事だと思ってしまうと思うんだがつまりはそういう事だ。
そんな事情は自殺する人には無いと言われそうだが、これは話を
分かりやすく大げさにしたからなのであってそんな事はないはずなのである。
少なくとも日本では。
最近は学校で「頂きます。」と言わせると
「ウチは給食費を払っているから子供に頂きますと言わせるな。」
というクレームが学校に来るそうだが、このクレームは正しいクレーム
だと思う人にはこれ以後の話は通じないかもしれない。
このクレームを学校につけた人はおそらく子供が「頂きます。」というのは
学校から施しをしてもらっているような態度のような気がして怒っているのであろう。
だから給食費は払っているという言葉が出てくる。
頭では理解出来るがずれていると俺は思う。
そもそもこの日本人が言う「頂きます。」はだれに向かって言っているのか?
小学校の先生は給食のおばさんや、農家の人たちにと言っていた。
一見、正しそうだが実はこれでも俺は少し違和感がある。
農家の人は自分で育てた野菜を自分で食べるときに「頂きます。」と言わない
のかと考えると少し見えてくる。
大体この言葉は国民の大半が農家だったころからこの国に存在していた。
つまりこの言葉は生命に対してかける言葉なのである。
とくに人間のような大型の生き物の場合、一つの命はそれ以上の多くの
命を伴ってしか存続し得ないのである。
これは曲げようのない真理であって、だからこそそれを身体をとおして知っていた
昔の人もこの言葉を作ったのである。
「(イノチヲ)頂きます。」
という事なのだと俺は思っている。
「イノチヲ」なんて当たり前すぎて言わなくなったのだろう「覚悟!!」
というのと同じである。
それがそういう事をいちいち言わずに皆しっていた時代から、近頃に
なってからと言うものこの言葉の向いている方向が人はだんだん分からなく
なってしまったのだろう。
今、いちいち食事をするときに(魚という生き物を殺して食べている)という感覚
を覚える人はいないだろうと思う。
それは今は社会が自然から切り離されてつくられた空間である証明であると思う
のである。
現代社会においては魚は生き物としてではなく、切り身として我々の前にならぶ
ので食べる方も「イノチヲイタダク」実感なんて伴わないのである。
ましてや、その作業を自分で行なったことがある人も少ない。
だから「頂きます。」という言葉が感謝の言葉であると理解していても
その感謝の方向はその食べ物が自分の目の前に来るまでに従事した人
の労働に対してになってしまう。
もちろんそれも大事なことだが、それだけでは本質ではない。
結局、ここまで通していいたい事は自分の命というのは必ずしも
自分の命だけではないのである。
人が一人できあがるにはどういう形であれ、必ず多くの命が必要になる
このことは昔から曲げようのない真実である。
現代ではそれは見えにくいから「私は虫一匹殺したことが無い」
と言う人も出てきかねないが、それは実際にはそういう事はあり得ない。
現在の社会のシステム上見えにくいだけである。
こういう事をはっきりさせると「だから菜食主義者に・・・・」とか言ってしまう人もいるが、
そういう事ではない。
人間以外の存在を含めても共通であるこの法則を理解して、それに対して
ある程度の責任を負うのが筋というやつだと個人的には思うのである。
自分で自分の命を絶つのは本来なら筋違いだ。
だからこんな事を不謹慎にも思ってしまうんである。
「お前!誰に断って勝手に死んでんねん!!」
偽らざる気持ちという奴である。
こういう事をクチに出すのが人間として正しいかどうかは知らない。
ただ、死んでない自分としては「頂きます。」の本質が失われない社会
を担う事は少なからず目指さなければと思うのである。
ちなみに最初の方で話に出した主人公のために明らかに自分が死んでしまう
状況で身を呈してしまう脇役は自殺かと言うと、当然そうではない。
命が命を存続させるために失われるというのならこれは筋が正しいのである。
by CoCoschKa
| 2007-01-08 09:20
| ココシュカのつぶやき