2006年 11月 20日
金で継ぐ |
人にはマッサージ師です。
なんて言ってるくせに昔から「癒し」という言葉が嫌いだ
この言葉が世間一般てしょっちゅう使われるようになったのは
おそらく中学生ぐらいのときやったのやが、当時からこの言葉
が好きになれなかった。
余計な話をすると、チオビタドリンクかなにかのCMで坂本龍一の
エナジーフロウという癒しがテーマの曲が使われ、その影響もかなり
あったのだと思う。
でも、これは勝手な憶測やが、おそらく坂本龍一もこの言葉が好き
では無かったのやろうと思う。
この曲は自身のアルバム「BTTB」には収録されず、同時に発売した
マキシ「ウラBTTB」にそれのみ収録され、それ以降もベスト盤等には
入っていない。
戦場のメリークリスマスみたいな曲でも
「演歌みたいで自分ではあまり好きになれなかった。」
と言っているぐらいアバンギャルドな人なので「ウラ」という言葉に
否定的な意味合いを感じる。
さて、話を戻すとどうして俺がこの言葉が嫌いなのかというと、この
言葉が持っているなにか「弱さ」のようなものが鼻につくんである。
「傷つきました。」と人が言う
「癒されました。」と人が言う
でもそれはどんなに癒されていても、目を凝らして見れば
傷跡の一つも残っていて、それはその傷を負う前から考えれば
やはりマイナスなんやないのか?
というのが、俺の昔からの問いかけやった。
こんな天邪鬼みたいな見方をしてる人間にはやはりこの
「癒し」という言葉が嘘に見える。
どんなに癒されても人は靴の底みたいに磨り減っていくんかよ!?
という怒りみたいなものを感じる時もあった。
実際、「癒し」なんて言葉が流行る前にやたらと「傷ついた。」
と言っている人も増えていた。
まるで、もう取り返しのつかない事態が起きてしまったかのように
騒いでいる人までいた。
俺はそれも嫌いやった。
人が「生きる」ってことはそんなにも脆いのか?
そういうわけでこの言葉にもまた怒りに似た感情を覚えていた。
でも、どんなに傷が癒されても、傷跡は恥ずべきもので、人目
を避けるべきものやと考えるならそれも理解は出来た。
決して共感はできなかったが。
さて、そんな事を日々感じていたのとは全く別に、俺は大学に
入ってからジーンズのリメイクをはじめた。
リメイクといっても皆さんご存知のようにリペアーの延長で加工
すること専門にしていて、ダメージ加工などはやらない。
別に、なんらかの情熱があって始めた訳ではない。
古い布を集めていて、それが結構な量になったので、好きな服を
扱う上で何か出来ないかと考えてたまたまそんな方法が頭に浮かんだ
だけだ。
しばらくそれを続けていた頃、お気に入りの皿が割れたので
いい機会だと思い、以前から気になっていた金継ぎの技法を
自分で試してみた。
金継ぎとは割れた皿の破片を漆で継いで、さらに割れた部分に金粉
をまぶして直す日本独自の技法である。
やってみて気づいたことやが、これはジーンズでやっていた事と
まったく同じことやった。
「同じ」というのは行為もさることながらその根本の精神が同じやった。
日本人には古来、器が割れた時に、その破片を金継ぎした部分を
「景色」として愛でる感性があった。
これは他の国では見られず、金継ぎは日本だけで発達した。
そんなときに俺はようやく気づいた。
自分が無意識に始めた事は、自分が長い間かんがえ続けていた事
に対する無意識の回答やった。
傷を傷として恥じるのではなく、それを金で継ぐことにより
生まれた時には無かったさらなる魅力とする。
傷つけば、金で継いで
また傷つけば、また金で継ぐ・・・・
ひいては金無垢みたいになってしまえば良い・・・
そんなことが頭に浮かんだ。
これは人間であろうが、モノであろうが関係の無いことだ
俺はおそらく、何をする時もその答えを探していた。
傷ついた時は「癒し」を求め、一時的な満足を得るのではなく
本当にしなければいけないのはそれを「金で継ぐ」ことだ。
実際にそれをするのは知恵も勇気もいることやが、だが不可能
では無い。
本来、ネガティブでしかないものをポジティブに作り変える。
それはどんな事であろうが、本物のクリエイションであり、生命
そのものである。
と俺は言いたい。
by CoCoschKa
| 2006-11-20 19:03
| ココシュカのあれこれ